昭和50年以下不明 杉山家・田畑家合同慰霊祭       (末永信太郎)  №50-134



 今日、期せずして田畑のお父さんと杉山のお母さんの式年のお祭りを一緒に併せて、私は奉仕させて頂いて。何か複雑な感じがしよりましたけれども、複雑どころではない、もう、それこそ整然とした感じで今日のお祭りを拝ませて頂きました。
 本当にあの、神様を信じ、御霊様、いわゆる魂の世界を信じる者でなからなければ出来ないお祭りでしたですね。ええ。あれを、ただ御霊様が喜びなさったろうといったようなもんじゃなくて、もう、そこんところを、あの、神様を信ずるそこに、あの、御霊様、言うなら親先祖を大事にする、止むに止まれん、例えば心。例えば、私は4~5日前に日田のいつもあの、(豊後森?)という所の山の奥から参って来る方がありますが、この頃から、もう、改式のおかげを頂きたいというお届けがあって、それから初めて、そこにお母さんの式年ではございませんけれども、帰幽日。
 お国替えになられた日を、まあ、普通、今までは仏教でお茶でも沸かしておったのを、合楽の親先生に御取次を頂いて、まあ、簡単なご挨拶を、お祭りということじゃないけれども、して頂きたいと言うので、親戚、それからご本人達が見えて、ここで簡単なお祭りをさせて頂きましたけれど。
 本当にその、信心でそれを、この真心でしかも神様を信じて、これから御霊様もまだ助かることが出けることも信じて、もうそこのお祭りをする為の心がウキウキするような喜びを、その真心を現して、その嫁さんという方がとにかく真心のあるという人ですし、信心も大変手厚くする人ですから、もう、お母さんの例えば甘な辛な一つ作らせて頂くでも、もう思いを込めて、その、朝からウキウキする気持ちで色んな親戚のお供え物もいろいろ料理して見えておられました。
 それをお供えさせて頂きました時に頂いた、あの、御理解でしたけれども。例えば、あの、声の良い人がね、お風呂ん中で歌を歌ったりすると、もう何とん言えん声が出るです。もう、自分で自分の声に聞き取れるごたる。ほれはもう、私どんでも、そげん歌のあんまり上手じゃなかったけど、時にはとても良い声が出る時、やはり自分で自分の声に聞き取れるようにです、もう、自分の心を拝みたいような時。
 これが例えば、んなら、本当の娘やら、本当の息子やらが親の思い、これは信心がなかってもです、本当に親を思うとか、子供を思うとかという念は、これはまた格別です。これは、やはり肉親というか、血というかね。けれども、そんなら、その、田畑さんところのこのお祭りでっち言うなら、例えば、田畑さんの、やら(郁恵?)さんの主人の高橋さんである人が発起して、どうでも一つお父さんの式年祭をさせてもらおうじゃないかと、夫婦の者が話し合うという心というものは、普通で出けることじゃないです。
 形の上は出けても、その思いというものは、ね。なら、秋永の者の場合でもそうである。それはもちろん、(三藤?)さんが中心になっての御霊様です、お母さん。けれども、やはりお姉さんの婿である秋永先生夫婦が、あの、いわば光男んところよりも、かえって杉山の家の者よりも、秋永の家の者が中心になって、先になって、このお祭りを奉仕したというところに、ある意味じゃ共通するものがありますね、今日のお祭りは。ね。
 ですから、例えばあの、親が子を思うとか、子が親を思うと言うなら、まあ、当然と言えば当然。けれども、んなら、あの赤の他人であるとか、または義理の仲であるとかというのが、もう、思いを込めて、今のその本田さんではないですけれども、姑親のまだ知らないお母さんのお立ち日だというので、しかも、初めて親先生の御取次を頂いて、今日は御霊様がどんなに喜ぶじゃ知れんために、その思いを込めてすることが、お祭りの奉仕の準備などの中にでもです、それこそ、自分で自分の心が有り難くなることだと思うです。 それこそ、声の良い人が自分の声に聞き取れるような。私は信心とは、けっきょく、自分で自分の心が拝みたいような心の状態をいよいよ本当なものにして行くことなんですから、高橋さんのお心を思う、秋永先生の心を思うた時にです、本当にこれが思いを込めてやれておるという事そのことに、信心っちゃ有り難いもんだなあと、まあ、家内についてはお勤めでしよるといったようなのじゃなくて、もう、それこそ一番初めに申しましたように、神を信じ、御霊の世界のいわば信ずることの出けれる人でなからなければ、そういう意味合いで出けない、今日はお祭りを私が奉仕させて頂いたように思います。
 御霊様の、お宅の御霊様のことを神様にお願い、御霊様がね、どういう風な、まあ、ことだったかと言うとですね、あの、高橋さんが、もう真っ白の、もう真っ白というか、やっぱ(かん?)ですけどね。で、(つるんだ?)もう、見事なあの、花をね、御一束持って見えたんです。そして、こうやってお供えしたところが、こんな小さい花瓶がね、あらっ、これはとても入りゃあせん。
 これはもう、(一輪挿し?)ぐらいなことしか出けんと言いよったら、もう、それこそもう、見事な(せいじ?)のね、花瓶とそれを取り替えるところを頂いて、その花を見事に全部さされたところを頂きました。これはどういう事かと言うと、今日の御霊様が、なら、受け物が小さかったのが、今日のお祭りを境に受け物を大きく取り替えて頂かれたなという感じがしましたよ。
 しかも、あの、せいじの、あの、壷というのは、もう非常にこう、清楚なね、すがすがしい感じです。御霊様が言うなら小さい受け物を大きい受け物に、このお祭りを境に、言うなら御霊の位も一段(とと?)いうことを申しますが、そういうおかげをそういう風に表現して頂きましたですね。
 あの、杉山のお母さんの、今日は三年で、本当に道雄さん、おかげを頂かれて、まっ、有り難いことでしたが、やはりあの、仏教できちっとなさっておられるもんですから、どうしても、その、御霊様の方には力が入らん。それはやむを得ないこと。
 けれども、こうしてあの、(姉さんたち?)夫婦の言うならば思いで、こうして行けたんですけれど。あのね、まあ、言うたって(分からないですけれども?)、あの、空の仏壇を一生懸命拝んでるところを頂きました。いかに今の仏教でね、あの、どんなに金をかけて、んなら、お供養をするとか、(ほうい?)をするとかといったって、通じるはずも御霊が喜ぶはずも絶対ないです。
 ただ、あの、子供達が真心でしてくれとる、その、空のごたる賑わいを、まっ、してくれとるその気持ちが嬉しいことであろうけれども、んなら、まあ、例えて言うとそうですけれども。んなら、今日の御霊様のお祭りなんかは、本当にお酒の好きな人はお酒が召し上がられ、お魚の好きな人はお魚が召し上がられ、甘い物が好きな人も甘い物が頂かれるという、そういう実感ですね、問題は。
 御霊様が牡丹餅を上がんなさる訳でもなかねば、酒を飲みなさる訳でもないけれども、そういう実感が、いわゆる神を信じ、御霊の魂の世界を信じておる者の言うならば奉仕によって、そういうおかげが受けられたんですけれども。あの、何と言うですかね。沢山こう、並んでおるところにあの、クローズアップということを申しますね。その中心、あそこの人だけをこう映すという、こう、杉山のお母さんのクローズアップの姿を頂いたですよ。だから、少しは慌て気味。
 あらあ、自分が映されると思わなかった(わけ?)。ね。そこだけ、こうクローズアップされたもんだから。そして、なら、言うておられること、思うておられることは、どういう事かと言うと、これはいつ、こげな風にしてお写真に写されるか分からんから、日頃が大事だな、日頃ん時にキチッとしとかにゃいけんなというような感じでしたよ。ね。
 そして、どういうことかと言うと、あの、御霊ながらにもね、あの、修行させて頂くことが楽しくなったという意味のことを頂きました。これはもう、御霊ながらに、御霊はおかげを頂いて行くために、やはり、御霊ながらの修行があります。しかも、その修行がね、あの、御霊ながらに修行させて頂くことが楽しくなった、と。また、言うなら次の五年の式年はもっと楽しい、もっと有り難い思いでお受けになることが出けるような、これは力を受けとかにゃいけんな、というな風に私は感じさせて頂きました。
 今日はあの、まあ、相応とうか、合同のことに期せずしてこうでございましたけれども、それこそ、あの、袖すり合うも多少の縁と申します。不思議なことに、高橋さんがやっぱり一番初めに金光様にお導きを頂いたのは秋永先生です。それが、期せずして義理の親たちの、その式年がね、あの、それも何かこう、縁があるように思います。とにかく、袖すり合うも多少の縁。
 今日の御霊様たちも、そういう縁によってです、また、何かあの、こう、賑やかにおかげを頂かれるような感じが致しましたですね。まあ、不行き届きなことでした・・・(テープがとぶ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・た時に、お神酒が足らんと頂いた。ええ。だから、後からもう一本ずつお供えせにゃいかんと思うんですね。お魚があんまり多すぎて、お神酒が足らん。
 ということはね、まあ、お神酒、有り難き、勿体無き、畏れ多きが足らんという風にも頂きますけれどね、ええ。これは、なら、例えばあの、田畑さんやら松尾さん辺りの場合は、本当なこつ、御霊様(にどん?)、ほんなこて、あの、牡丹餅を食べござるじゃろうか、ほんなこてお酒を飲みなさるじゃろうかと、まあ、思うのも無理ない。それは、飲みはしなさらんばってん、と同じような働きがあることだけは間違いないです。ええ。だから、あの、魂の世界でね、あの、私どもがいよいよおかげを頂くために、いわゆる、現世、今現在、魂を本気で清めとかなければいけないということは、もう、霊祭をする度に私は実感致します。
 お互い、本気でよい信心させてもろうて、本気で魂を清めることの精進をしとかなきゃなりませんですね。